(ネタバレあります)
ジョセフ・コシンスキー監督による2013年のアメリカ製SF映画。デビュー作の「トロン・レガシー」も大人から子供まで楽しめるディズニー映画らしいSFエンタメであった。この人、SF好きなんだろうなあ、ビンビン伝わってくる。ただし、オリジナルの当時の映像技術の限界からくる偶然も大きく関わるであろう、あの”あまりにも異様で異質な”電脳空間の味わい深さは残念ながら再現できていない。よく見かける画面の絵面として流され埋もれてしまうようなモノだった。
異星人スカヴからの侵略を食い止めたものの、核兵器によって荒廃してしまった西暦2077年の地球で、スカヴの残党を始末するため、高度1,000mの上空から地上を監視する任務についた、ジャック・ハーパー(トム・クルーズ)とヴィクトリア・オルセン(アンドレア・ライズボロー)の2人を中心として物語は進む。途中、宇宙船が墜落し、唯一の生存者のジュリア・ルサコーヴァ(オルガ・キュリレンコ)を救出するのであるが、彼女がジャックの名前を知っていることから物語は大きく急展開する。ジャックも何度も脳裏に浮かぶフラッシュバックで彼女の存在を知っていたのだ・・・
えてしてこういうトリッキーなSF映画は脚本が難しく、ツッコミどころ満載になってしまうものであるが、ご多分に漏れず、まあ色々とおかしな点も多々あるのであるが、かと言ってつまらないのかといえば決してそんなことはなく、最後まで緊張感を持って引っ張って行ってくれる傑作であり、私は大好きだ。荒廃してしまった地球の描写も美しく壮大で、登場するSF的ガジェットのデザインも素晴らしくセンスもいい。
これは多くの方がすでに指摘しているのであるが、物語の根幹を成す世界観の設定が「月に囚われた男」によく似ていることが、この後この映画そのものの評価に対して大きく影響してしまっているように思えるのだ。
共通点は、一人または少人数の人物がある任務を与えられ、それを孤独に遂行するのであるが、そのことには隠された真相があること。登場人物はその人本人ではなくクローンであり、無数に存在すること。まあ、SFの世界においては昔からあるにはある設定だけにこれがいけないという訳ではないのだが、「月に囚われた男」にオマージュを捧げたこと、とりわけ、登場人物がクローンであるという大前提が、後々この映画を苦しめていったのではないかと思えてならない。
では私が引っ掛かってしまった点を挙げていこう。
①侵略者の正体は一体なんだったのか?人類とは異なった姿の生物なのか、はたまた肉体
を持たない精神だけの一種のエネルギー体のようなものなのか、または完全にAIの様な
プログラムなのか?
②侵略者は人類を滅ぼしてまで必要とした資源とは何で、その必要性は?
③地上をコントロールするために、わざわざ人間のクローンを使う必要性があったのか?あ
れだけ進んだ科学技術があるのだから、攻撃用のドローンとメンテナンス用のドローンな
ど簡単に用意できたのではないか。
④ジャックとヴィクが記憶を失う前、コールドスリープのジュリア達を切り離し、彼らを
救った後、その脱出部分は今までどこにいたのであろうか?自動で大気圏突入し帰還す
るようなプログラムがあって然るべきなだが、周回軌道に乗って地球の周りを周回して
いたのか?それならば異星人は当然気づいているはずだから、真っ先に破壊していそう
なものだが。
⑤ヴィクの脚本上の立ち位置はどんなものだったのか?彼女はジャックと全く同じ状況で
記憶を全て失い何も知らなかったのであろうか?それならば序盤からの上官とのやり取り
やジャックを見つめる彼女の意味ありげな演技(アンドレア・ライズボローの素晴らしい
演技!)に漂う不穏で意味の分からない違和感は何だったのか?
以上が私が特に気になった点であるのだが、①と②に関しては、これはこれでいいと思う。人によって感じ方は様々であると思うが、私は説明過多の作品が嫌いだ。観るものにとっての妄想する部分を残しておいて欲しい。受け取るものよって幾つもの解釈が成り立つような作品が私は好きだ。この映画はこういう状況で始まります、皆さん、とにかくこの設定に身をゆだねてください、と言われれば私は、「はい!」と言いたい。
④に関しては明らかに脚本上の穴であり、辻褄があわないのであるが、これも作品の評価を落とすような致命的なものではない。恐らく鑑賞後になってやっと違和感に気づくようなものであるから、このへんは大目に見ることが大人としてのたしなみである。
さて、私が一番問題にしたいのは⑤なのである。
モニター上でしか登場しない上官に明らかに付きまとう違和感、ヴィクの立ち居振る舞いに漂う何か隠しているぞ感が、アンドレア・ライズボローの名演技によって、観るものに対して強烈な伏線の存在を印象づける。
結論から言えば、私の中の個人的主観において、この作品が大傑作になるためには、ヴィクの脚本上の立ち位置が違うものであってほしかった。彼女は以前からの記憶を保持していて、全てを承知の上でジャックとの暮らしを続けていたのだ。
人間を利用して、地上で働かせるには、軍事知識もある頑健な身体の男性が望ましい。しかし記憶を改変して孤独に任務を遂行させるのは精神に異常をきたすことが予想される。ならば女性のパートナーを置き、少しでも精神の均衡を保たせようと、異星人はヴィクをジャックのそばに置き、日常の変化を監視させた。
ではなぜ、ヴィクはそのような人類全体を裏切るような行為を承諾したのか?
そこで生きてくるのが、ジャック、ジュリア、ヴィクの三人が同じ宇宙船のクルーであり、長期間一緒の任務に就いていたという設定だ。
ヴィクは長い間ジャックを愛していた。しかしジャックはジュリアと相思相愛である。表面上では平静を装いながらも、彼女の心の中は、それこそ身を焦がすような嫉妬の嵐に苛まれていた。それは日に日に彼女の精神を蝕み、心の均衡は完全に崩れていった。
人類を裏切るようなことになろうとも、ジャックと二人だけの愛の生活を手に入れることができるこんな好機を、彼女にはとうてい見逃すことはできなかった。ジャックの愛を得るためになりふり構わず、異星人からの悪魔のような申し出を承諾してしまったのである。
そうすると、邪魔になるのが疑問点の③になるのである。ヴィクとジャックの2人がクローンである必然性があまりないというか、かえっていらないものになってくる。監督が「月に囚われた男」にインスパイヤーされた時点で、恐らくは、クローンであるという設定は絶対であり、大前提であったのではないか。私がこれをこの映画における致命的な足かせと思ってしまった所以が、このあたりにある。
叶わぬ恋とは知りつつ、その相手を諦めるこもできず、挙句の果てには人として超えてはならない一線をも超えてしまう女心の哀しさが、観るものの胸を打ち、切々たる感動を呼んだのではないか。それでこそ序盤からのアンドレア・ライズボローの繊細な演技が、彼女の美しさと相まって、この作品をより格調高いものへと押し上げることができたのではないかと今更ながらに残念に思えて仕方がないのである。
しかしこの主張は、あくまでも私の個人的な趣味趣向に大きく影響されることであるから、なにつまんねぇことグチャグチャ言ってんだ、偉そうなこと言うんじゃねぇ!と言われても致し方ない。そう思わせてしまったのなら、ただただお詫びするしかない。
さて今まで触れずにきてはいたのだが、賛否両論を呼んだのが、ラストの大オチである。
これに関して私は、あまりどうこう言うつもりはない。こういうラストで「えっ!」となる演出は、それこそ監督だけに委ねられるのものであり、好きにさせてあげたい。ジャックがクローンであり、複数存在するという設定上、もしかしたら、これをやりたいがために、ラストから逆算して脚本を組み立てた可能性さえある。
まあ、強いて言うならば、実際にジュリアとの間に愛の結晶を設けたのは49番のジャックであるから、52番のジャックが「49番、お前はここに残ってジュリアと子供を守れ、特攻はオレに任せろ!」的な演出も可能かなとも思ったのだが、いささかこれはやりすぎの感もなきにしもあらずである。
海外の方達も色々と思うことがあったようで、個人製作の別エンディングがようつべに上がっていたので付記しておく。「まあ、誰しもこう思うよなあ・・・」という大爆笑のものなのでお暇があればご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=3rf5QwVAAxg
最後にお断りしておきたいのは、私はこの映画が大好きであり、トムの代表作であるとも思う。SF映画としても一級品であり、繰り返し観たい映画のひとつでもあることをここに強く主張しておきたい。
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