今回も盛大なネタバレを含みます。充分ご注意ください。それと、過去の文章を読み返していて言葉使いが偉そうで上から目線だったので、ですます調に変更します、よろしくお願いします。
Wikipediaによると、
『切り裂き魔ゴーレム』(きりさきまゴーレム、The Limehouse Golem)は2016年のイギリスのミステリ映画。監督はフアン・カルロス・メディナ、主演はビル・ナイが務めた。本作はピーター・アクロイド(英語版)が1994年に発表した同名小説(英語版)を原作としている。
とされている。
残念ながら、私自身、原作を未読で作者についても知識がないのですが、映画の出来や脚本家が映像化を熱望していたという経緯をみても、間違いなく傑作なのであろうと推察できます。
原作は傑作なのであろうと想像できる今作を鑑賞して、さて映画そのもが傑作かと問われれば、私自身、素直に絶賛できる自信がない。
いや私にとっては、こういう古色蒼然とした舞台で繰り広げられる時代劇ミステリは大好きですし、実際とても心に残る作品でした。
では何が言いたいのかというと、"観る人を選ぶ作品"だということです。
後に詳しく言及しますが、六角形のパラメーターで表すならば、とても歪んでいびつな形をした映画であると思うのです。いびつであるというのは駄作であるという意味ではなく、脚本家が原作の何を見せたかったのかと言う点において、切って捨てた部分と強調したい部分の見せ方が、とても極端で、観客にとって分かりずらい見せ方であったと思うのです。
では私がなぜそう感じたかというと、謎解きミステリと映画というものには、決定的に相容れない相性の悪さがあるのです。
かのヒッチコックは、
「私は映画で謎解きミステリをやるつもりは全くない。私がやりたいのはサスペンスなのです」
と語っている。
例えば、なにか重要なモノが入っている箱があるとしましょう。
多くの人物がそれを欲しさに争奪戦を繰り広げることにより生ずるアクションと緊張感を描くことがサスペンスであり、ヒッチコックはそれの映画との相性の良さをよく判っており、それを描きたかったのです。
極端なはなし、彼にとって、箱の中身が何なのであるかということは大して重要ではなく、奪い合うことによるサスペンスが重要であったのです。
謎を解いていく思考のアクションとも呼ぶべきものは小説とは相性が良いのですが、映画とはあまり反りが合わないものなのです。
登場人物が思考を巡らす時、まず間違いなく画面は止まってしまい、絵は死んでしまうのです。
かの「ダヴィンチコード」の映画化があまり良い評価を得られなかったのもそのためかと思われます。
謎の発生→手がかりを得る→アクションシーン→解決
が矢継ぎ早に起こり、観客にとっての謎解きのカタルシスを感じる暇が全くありませんでした。余談ですが、私はこの映画、大好きですw
元々映画というメディアは直線的で後戻りのできない性質があり、謎解きの過程が複雑であればあるほど、それは相容れないものなのです。小説は何時でも好きな時に後戻りできるメディアであるがゆえに、作者があえて複雑なプロットを限界まで詰め込んでみようと挑戦していく過程で、傑作が生まれる可能性があるのです。
さてそれでは今までのはなしが今回の題目とどういった関係性があるのかという本題に入ります。
「切り裂き魔ゴーレム」という作品のストーリーをごく簡単に言ってしまえば、
ヴィクトリア朝時代の英国において、連続猟奇殺人事件が発生するなかで、その容疑者と目される男の殺害容疑で逮捕された妻の無実を証明し、死刑執行を防ぐために奔走する老警部補の活躍を描く時代劇ミステリです。
こう書いてしまうと、ハラハラドキドキの胸のすくようなタイムリミット物を連想するかもしれませんが、そうならないのがこの映画のひねくれたところ。
いったい犯人は誰なのかというドキドキはあるのですが、通常こういった物語では主要登場人物の立ち位置、被害者たちの顔ぶれ、行われた犯罪の羅列などが、少なくとも観客には分かりやすく描写されるべきです。
捜査している者達、容疑がかかる者達、被害者達、ヒントを与えてくれそうな者達などを整理して時系列ごとに登場させてほしいところです。
しかし、フラッシュバックやイメージシーンが多発し、複雑なプロットを整理して観客に分かりやすく提示して見せる気などは一切ないのだなと冒頭から気づかされます。
明らかに"切り裂きジャック"を連想させる"ゴーレム"と呼ばれる連続殺人犯が存在します。
"ゴーレム"というものが象徴する歴史的、民族的な背景については確かな知識を持ち合わせておらず、めったなことは言えないので、今回は触れずにおきます。興味のある方はご自身で調べてみてください。
その"ゴーレム"が行う犯罪が、ストーリーの進行に合わせて描写されるのですが、これが分かりにくい原因のひとつです。そうではない方もいるのでしょうが、あれっ、この人って殺されていたんだ、この被害者って誰だっけ、という場面が多発します。
相当注意して観ていないと、いったい今何を見せられているんだという状況に陥りかねません。
更に、とても巧妙なミスリードやどんでん返しを内包しているにもかかわらず、それを鮮やかに観客に披露しようとする意志があまり感じられません。
例えば、容疑者が四人の男性に限定されるある設定があるのですが、それはミスリードであり、女性の地位がとても低かったという時代そのものが、大きなトリックになっています。私は唸ってしまった見事なプロットなのですが、演出がさらりとしてしまっているので、贅沢な使い方だなあともったいなくも感じました。
結局、私が強く印象に残ったのは、監督や脚本家は複雑で魅力的なプロットを観客に提示することよりも、ヴィクトリア朝時代の退廃的で混沌とした、しかし現代の我々を引き付けてやまない空気感を豪華なセットで鮮やかに再現し、不幸な生い立ちに産まれた犯人の、最大にして最後の望みは一体何だったのであろうか、そういうところに演出のフォーカスを合わせていったように思えます。
女性の身でありながら(ネタバレw)、このような猟奇的な犯罪に至った直接的な動機も直感的には判りずらく、観るものを混乱させる一因かもしれません。
本来、謎解きの物語であったものを、そのように演出したため、とてもいびつで判りずらい作品となったと思います。金田一耕助のように、関係者を一堂に集めて、「さて今回の事件は…」という大団円はやってはくれないのです。
しかしながら、ラストにおとずれる衝撃的なシーンは観るものの心を挑発するような、様々な解釈を連想させる余韻の残る味わい深い締めくくりであったり、殺害シーンや発見された被害者の描写が、ちょっと引くぐらい残虐でショッキングで(鑑賞には注意が必要)、心に残る場面が数多く存在します。
ヒロインの女優さんがとても可愛いくて、それも大きなプラスポイントです。彼女、「レディープレイヤーワン」のヒロインでもあるそうで、全く気付きませんでした。
惜しむらくは、主人公が同性愛者であるため出世コースから外されている設定が、いまいち物語と上手くリンクしていない点や、どうしてヒロインにここまで同情し感情移入していったのかという、心の微妙な動きが演出されていなかったことなどが挙げられます。
誤解を招きそうなので言及しておきますが、私はこの作品が大好きです。観終わって全てに合点がゆき、ああ面白かったで終わってしまうのも好きですが、この作品のように鑑賞後、深く考え込んで引きずってしまう、観る者の心を挑発するような、そんな作品が良い映画なのではないかと思っています。
原作を未読であるということ、複雑なプロットや特殊な時代背景ゆえ、間違っている点や、これはこういうことだよ、などというご指摘、ご意見などあれば、いつでもお待ちしています。誤りがあれば速やかに訂正します。
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