#怪談というものについて

 現在、怪談師と呼ばれる人達がたくさんがいるのであるが、それは芸人であったり、役者やタレントであったり、ネットを中心に有名になった者であったり、群雄割拠と言っていい状況である。しかし、私達が一番に頭に思い浮かべるのは、やはり、御大稲川淳二氏であろう。氏は元々工業デザイナーであり、その道では素晴らしい経歴の持ち主であるのだが、演劇の道に関わるようになり、いつしか怪談を披露することがクローズアップされ、現在の地位を築いていった。

 近頃よく耳にする、”第二の稲川淳二”と言うフレーズに私は違和感を覚える。稲川氏がなぜ人々の心を掴み、支持されてきたのかをよく考えてみないと”怪談”というジャンルそのものがおかしな方向へ行ってしまうのではないかと、危惧しているのである。

 氏の出発点というのはそもそも、自身の経験したことや、身近な人達から聞いた怪異な話を聞いてもらいたい、そして震えあがってほしいという、ただそれだけのプリミティブな欲求に端を発していたのである。であるから当然、”実話怪談”としての臨場感が生々しく、聞き手に迫ってくるような恐怖感は半端なかった。

 しかし、ファンとして氏の怪談を長年聞き続けていると、個々の話が変化していることに気づいてくる。

 それは当然のことであって、“個”を特定してしまうことは”実話怪談”というものにおいては、不特定多数の聞き手を相手にする場合、避けなくてはならない。誰かのプライバシーを侵害することは許されないのである。それを避けるために話を改変することは、当然の義務である。

 もうひとつ、氏の特徴として、その場の雰囲気が乗ってくると、何かに憑依されたがごとく興奮して我を忘れたかのように前のめりになってしまうことがある。その結果、結末が変わったり、複数の話が混ざり合ったりすることが発生する。プラス、観客をただただ楽しませたい一心で、その場のアドリブで話を観客の好みであろう形に瞬時に変化させたりもする。これは長年のパフォーマンスのなかで徐々に積み重ねて作り上げられてきた氏の”怪談を披露する者”としての作法なのである。

 

 しかしながら、怪談というものには”創作”も存在する。これは古の昔から連綿として受け継がれてきた、古典的な話芸としての”怪談”である。この場合、重要視されるのは、語り口のうまさであったり、話しの構成の巧みさであったり、落語に近いものである。

 現在の私達が怪談を聞いたり、書籍として読む場合、”創作”と”実話”のどちらを選ぶかと言えば圧倒的に実話のほうが多いだろう。実際、書籍としては”実話怪談集”としないと売れ行きが悪いそうである。

 では、”実話怪談”が多くなると何が問題になるのであるかと言えば、聞いていてしらけてきてしまうことがよくあるのだ。”作ってきた感”や”ネットで拾ってきた感”があからさまな語り手が多くいるのだ。これから話す内容は創作です、というのであれば何の問題もないのであるが、これは私の知り合いの体験した話なのですが、で始まる話が、できすぎた展開でキチンとしたオチがあると、一気に引いてしまう。

 実話であるというのであれば、淡々と、起こった事実をありのままに伝えた時に、得も言われぬ恐怖感が生まれてくるのである。そこに小賢しいテクニックはいらない。時として、全くの素人の話が、圧倒的な恐怖感をもって私たちに迫ってくるのはこのためである。

 ここのところを勘違いしている若手の怪談師と呼ばれる者が多くて困る。稲川氏の語る怪談にフィクションが混入してきたのには様々な要因と長い年月が影響しているのである。最初からフィクションを実話ですと欺いたわけではない。ネットに転がっているヨタ話を披露するのであれば、実話を名乗ってはならない。いい歳をした大人には通用しないのである。こういうことが続くと、怪談というジャンルが先細りになってしまうのではないかとファンとしてはとても心配になってしまうのである。

 あまり言いたくはないのであるが、島田秀平氏を”第二の稲川淳二”と呼ぶのはやめていただきたい。彼の場合、”創作怪談”というジャンルであるのなら、なかなかのものであると思う。しかし、話の内容はどう見てもネットで拾ってきたんだろうなあというものが大半だ。聞いていると、どんどんと冷めてくる。稲川氏の話芸が現在の形になったその道程を、よくよく考えてみないといけない。イチローのあの独特のバッティングフォームをそっくりそのまま真似てみても、ヒットは打てない。あれは子供の頃からの長い試行錯誤から産まれた理想のフォームなのである。

 では現在、実話怪談の語り手がいないかというと、そんなことはない。私の個人的な好みであるが、芸人の好井まさお氏がいる。

 彼は主に自身の体験した怪異な話を得意とするが、彼の語り口は淡々としており、何の誇張も感じられず、話のオチもなく、一体何が原因でこのような不可思議なことが起こったのかという結末もなく、物語は終わりを迎える。その時の聞き手の、放りだされて置いて行かれた感覚は不気味で恐ろしい。実話というのはこうでなければならない。ここでお断りしておかなければならないのは、話の内容が真実かどうかは大した問題ではないということ。彼の語る姿から”実話”であるという空気感が感じられればいいのであって、”怪談を語る者”としての”たたずまい”が、美しいかどうかが重要なのである。

 中山市朗氏、ありがとうぁみ氏、島田秀平氏などは、”創作怪談”というジャンルであるのなら、楽しく聞いていられるのだが、”実話怪談”と言われると違和感しか残らない。このあたりは私の個人的な主観が大きく影響するので、反発を覚えられる方がいらっしゃるとは思うが、そのへんはご容赦いただきたい。

 今後、怪談というものが生き残っていくためには、この”創作”と実話”という境界線をどのように扱っていくかが、大きな問題であると思う。まず真っ先に気を付けておかなくてはならないのが、”第二の稲川淳二”というフレーズをむやみやたらと使わないことだと思うのであるが、皆さんはどのようにお感じになられるであろうか。

 

ザルで水汲むマニア心

映画やゲームについて好きなことを呟いていきたいと思います。一部ネタバレを含む場合があります。

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