リチャード・マシスンの小説、「地球最後の男」(原題"I Am Legend")は過去三度に渡って映画化されている。今回お話したいビンセント・プライス主演の「地球最後の男」(1964年)、チャールトン・ヘストン主演の「地球最後の男オメガマン」(1971年)、ウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」(2007年)の三作である。ヘストン版のオメガマンとは〝Ω″すなわちギリシャ文字の最後を意味し、文字通りの最後の男である。この作品は低予算感が漂う、原作の設定の表面をなぞっただけの、チャールトン・ヘストンが出演しましたという、ただそれだけの作品で、あまり語る価値のない凡作であるので省略する。スミス版は傑作になりそこねた惜しい作品である。初見の時の誰もが感じたであろう、肩透かしを食らったような、釈然としない幕の閉じ方である。途中、感染者が仕掛けたであろう罠に主人公が嵌る場面があるのだが、これは明らかに感染者が知性を持っているという伏線である。しかしその伏線が回収されないまま映画は終わってしまうのである。多くの観客が首を捻ったことであろう。監督は何を考えてんだ、ちゃんとやれっ!、と思った方もいるかもしれないが、実は最初に撮られた別エンディングがあったのだ。感染者が主人公を襲うのには理由があって、主人公が人体実験しているサンプルは、実は感染者のリーダーの恋人の女性であり、ラストでその女性をリーダーの元へと返し、主人公はワクチンを完成させ、生き残った人類と合流し、伝説の男となるのである。敵だと思っていた者にも感情があり、愛するもののために戦っていたのである。アメリカ人にとっての敵というものは、感情もなくただ単に邪悪な存在であるという勝手な思い込みを、対テロ戦争に突入したアメリカ国民のイスラム教徒全体に対する偏見と差別を抗議するような意味をこめながら、皮肉ったなかなか見事なエンディングであった。当然配給側はこのようなラストを嫌い、ただのモンスターに立ち向かって人類を救った主人公に変更し、伏線を回収することもなく、しょうもないエンディングに変更してしまった。そこで〝アイアムレジェンド″って言われても、なんじゃそりゃ?となる。監督の心中を察するに余り有るとはまさにこのこと。で、プライス版についてであるが、これは原作のスピリッツをほぼ完全に再現した傑作である。人類が謎の病原菌に感染した世界に独り生き残った主人公が絶望感にテンパってゆく過程を描くホラー映画であることは共通しているのだが、原作の持つラストでの今までの価値観をひっくり返す驚愕の展開を忠実に映像化している。主人公は昼間に活動できない感染者を毎日黙々と殺害していくのだが、実は理性を保ったままの比較的軽い症状の感染者達が存在し、密かに彼らの社会を形成していたのである。彼らから見れば、主人公は無防備になる昼間に自分達を殺して回る恐怖の怪物なのである。ラストになって主人公は、自分自身が伝説のモンスターであったことに気づき愕然とするのである。今までの価値観を逆転させる見事としか言いようのない皮肉な展開だ。最後は教会の中に追い詰められ、マシンガンでハチの巣にさせられ息絶えるのである。ドラキュラ伯爵の最後をイメージさせる華麗なエンディングである。モノクロであることと古い映画特有のもたつく展開であることを差し引いても、名優ビンセント・プライスの熱演を堪能して欲しい。そして、いかに現在のハリウッドが興行収入を優先するがためのどうでもいい作品を産み出しているかという現実を感じて欲しい。リチャード・マシスンが作品に込めた思いは今のハリウッドでは届く術もないのであるのだから。
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