先日、NHK制作の吉岡秀隆主演「悪魔が来りて笛を吹く」を見た。吉岡金田一というのはなかなか予想していなかったチョイスで意表をつかれた形となったが、これが予想に反して意外とイケていた。ノロノロ、ぼそぼそと喋る風采の上がらない金田一を好演していた。衣装やセットも、腐ってもNHK、とても丁寧に戦後すぐの日本の雰囲気をよく再現してた。登場人物の配役も、尺の関係上省かれてしまう人物も省略されていないことを含め、なかなか原作のイメージに合った役者で固めていた。中でも驚いたのは倉科カナである。年老いた貴族の愛妾を演じていたのだが、その画面映えする美しさは原作のイメージをよくとらえていた。グラビアアイドルとしては知ってはいたのだが、普段ドラマを全くと言っていいほど見ないので、こんなにいい役者さんになっていたとは露とも知らなかった。某俳優と熱愛というのは知っていたのが、なるほど女性というのは恋愛を経験するとこうも変わるものかとしみじみ思った。ドラマそのものは原作にとても忠実に進行してゆき好感を持って視聴していた。原作の持つ特殊性ゆえに、ある〝諦めなければならないこと″ が存在するのは承知していたのでなかなかよく出来た映像化だなと思って見ていた、ラスト直前までは。横溝作品のような何度も映像化されてきた原作を新たに作り直す際に、独自の解釈を施すのは面白いと思うし、大胆なアレンジをするのもやぶさかでない。しかし、今作の場合はちとやりすぎたのではないか。犯人の生い立ちは目を覆いたくなるような悲惨な宿命を背負わらされていて、その原因を作った者達への復讐が物語の根底にある。ところが今作では、犯人はラストまで自分の本当の出自を知らなかったというアレンジがされていた。それ自体はイイ。面白いアプローチである。しかしそれをやるのなら、ラストの改変に向かって収束させるための、序盤からの物語の積み木を緻密に積み上げていく構築作業をしていなければならなかったのだ。観客の立場からすると、その改変が唐突にやってくる。原作に忠実に丁寧に作ってるなーと感心していたから余計にそう感じてしまう。ラスト直前で突然閃いたから変えちゃいました、という風に感じてしまうのである。まあ、独自のアレンジを加えることに燃えていて、厳しい環境の中でも最大限努力してこうなってしまったのかなぁと、私は好意的にとらえてはいるのだが…。さて原作の、ある〝諦めなければならないこと″ についてであるが、実を言うと、この原作はあまり映像化に向いていないのである。闇夜の中に佇む死んだはずの子爵が、フルートの音で人々を恐怖に陥れる場面のインパクトなどから、一見ビジュアル先行の物語のように思われがちであるが、そうではない。この物語のキモは、金田一と若い刑事の二人が、明石から淡路へと渡り一族に起こった忌まわしい秘密を解き明かしていく場面にある。戦後の没落してゆく貴族の悲哀を風光明媚な情景描写と絡めながら、絡まった糸を一本ずつ解していくかのように、謎が少しずつ少しずつ明らかになっていくスリルが、鳥肌が立つほどに読む者の心を掴むのである。しかし、ここで問題になるのが、この場面を忠実に描こうとすればするほど画面は死んでしまうのだ。宿の女将や年若い女中、板さんなどからの地味な聞き取りがメインになり、絵の動きは止まってしまう。ならばこの場面を過去の回想シーンだけで処理してしまうと、あー、そうだったのね、で終わってしまい何の高揚感も得られない。掴んだ糸が途切れたと思ったら、思わぬ所から次の糸口が見つかるという御大の熟練の筆さばきが、読者を魅了して止まないのだ。過去何度も映像化されてきたのだが、それぞれの監督はそのことを十分承知していたと見えて、このパートはことごとく省略されてきたのである。過去作があまり芳しい評価を受けていないのはこのためだと思う。市川崑監督が手を出さなかった理由がここにあると私は勝手に決めつけているのだが、真相はどうなのであろうか。「悪魔が来りて笛を吹く」は横溝作品の代表作であるにもかかわらず、映像化には向いていない事だけは確かなのであるが…。
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2019.01.13 14:43